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戦国史から学ぶもの

2020/11/23

今夏、『利休にたずねよ』(山本兼一著)という本を読み、茶の湯を切り口とした戦国史を垣間見ました。

それをきっかけに戦国史自体に興味が湧き、ステイホームのなか読み続けています。

 

 

リスクを取った秀吉

 

戦国史は言ってみれば領土の奪い合い、さながら陣取りゲームです。

下級武士の台頭(下剋上)、領土の拡大、または縮小、政略上の配置転換、敗退の果ての滅亡といった栄枯盛衰が繰り返されます。

 

あまりにも頻繁であるため、どの年代にどの戦国大名がどれだけの領土を支配していたのかは、とても頭に入りません。

 

その状況に打ってつけの1冊を見つけました。

大きな戦を経て、領土が目まぐるしく変わりゆく様相が手に取るように分かります。

長篠の合戦で織田徳川連合軍が武田勝頼軍を破り、これを機に武田氏は衰退。織田信長の天下取りが加速します。

が、天下平定まであと一歩のところで明智光秀に討ち取られてしまったのはご存知の通りです。

 

 

 

戦国史から学べるのは、陣取りゲームではなく、その結果の引き金となった戦国大名が下した決断です。

重大局面に対峙して2つの選択肢のいずれを採るのかで、天国と地獄ほどの違いが出てきます。

 

 

本能寺の変のあと、備中高松城(今の岡山県)で毛利輝元と闘っていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は直ちに和議をし、光秀との決戦に挑みます。

世に言う秀吉の中国大返しです。

 

これとて大きな賭けであり、状況の変化によっては非常に不利な戦を強いられる可能性を残していました。

それでも躊躇なく京へ引き返し、山崎の戦いで光秀軍を破り、その後の天下取りを引き寄せました。

 

 

リスクを物ともせず、挑んで成功した事例です。

 

 

リスクを回避した義景

 

一方、リスクを回避して、果ては滅亡まで追い込まれたのが、写真右上の朝倉義景。

 

室町幕府13代将軍、足利義輝が暗殺されると、その追手は大和(奈良)興福寺で仏門に入っていた弟の義昭に及びます。

義昭は大和を脱出、近江(滋賀)を経て、朝倉義景の居城である越前(福井)一乗谷に身を寄せます。

 

状況が落ち着くと、義昭は自らが将軍に就くべく、義景に上洛(京に上ること)の手助けを請います。

ここで義昭を伴って上洛すれば、義景は天下を一気に手繰り寄せるチャンスでした。

 

が、しかし、義景は躊躇します。

自身の長期不在の間に、隣国の加賀、越中を支配する一向一揆衆(浄土真宗の武装集団)に攻め込まれるのを恐れたからです。

 

 

業を煮やした義昭は、美濃の信長に上洛の力添えを願い出ます(このとき間を取り持ったのが明智光秀)。

信長はすぐさま動き、義昭を奉じて上洛。これを足掛かりに信長の天下を築いていきます。

 

その後、信長と義景は敵対し、金ヶ崎の戦いや姉川の戦いを経て、義景は自害し朝倉氏は滅亡します。

 

 

 

歴史に“ たられば ” を言い出せばキリがありませんが、リスクを取るか、リスクを回避するか、この二者択一は世の中も、もちろん本人の運命も決定的に変えてしまうことを戦国史は教えてくれます。

 

 

 

人生の大きな岐路、転機に立たされた時にどのような決断を下すか。

戦国史は、その点で頼もしい指南役とも言えます。

 

私の場合、そういった局面はあと1回か2回だと思いますが、悔いを残さない選択をするために学び続けていきます。

 

 

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